という題名のクリスチャン・スレーター、メリッサ・トメイ主演の恋愛映画があった。
小学生だった私は、当時40代であった母が大絶賛しても大人のラブストーリーなこの映画作品に目もくれなかった。私も当時の母の歳に近づき、もしかしたら今ならわかるかもしれない。ウォッチリストへ入れておこう。
さておき、今夜私がしたいのは「忘れられない人」なんておセンチに浸るような話ではない。
忘れられない「モノ」の話だ。
下ネタではない。(知っとるわ)
執着ではないのだが、執着のような、お気に入りを持つということはこういうことかという心の経験談だ。これを書き終える頃には、執着より相応しい表現が見つかっているはずだ。
忘れられないモノ、それは黒いキャップ(野球帽)だった。
インドから帰ってきたあたりから、物を「所有する」ライフスタイルは、移動が多い私に合わないことを自覚し始めた。糞転がしのように動くたびに荷物が多くなって行くと行動が制限される。物を持つということをよく観察すると、自由を手に入れてるようで、不自由を代償としていることがある。メキシコでびっくりするほどの「マテリアリズム」に翻弄され心を乱される感覚を味わって以来、心機一転・身の周りをシンプルにさせてきた。
ゴミが出ないようにチラシなどはもっぱらデジタルだし、包装に使ったものは再利用、一定期間使わなければどうにか考えてサクッと手放す。何かを買う必要が発生した際は、まず家の中に在庫や代替え品がないかを探す。次に作れないか。最後にどうしてもという結論に辿り着いたら「1番のお気に入り」を買うことに決めている。
去年の2月ごろ、実家に久々に帰省。飛行機を降りて母と合流し、アウトレットに直行した。買い物に行く時に私はリストを持って行く。その中に「黒いキャップ」があった。
私はなぜ黒いキャップを探していたのかすっかり忘れてしまったが、これは覚えている。まず、黒色に限定したのは、昔から私はカラフルなものが好きで、直感的に選びすぎて「歩く色彩チンドン屋」になりがちだった。(今も名残はあることは否めない。)そんな時代の自分も好きだったし、今もチンドン屋魂は間違いなく私の中で生存し続けているが以前に比べると大分トーンダウンした。無論、ここぞという時に選ぶ色はあまり日本人が好んで選ぶ色彩ではないので、部屋の壁にピーコックグリーンのペンキを選んだ時は母が目を丸くした。良識のある、純ジャパニーズの母の意見は私を不安にさせる。が、私は自分が寝起きする空間を人様の基準で「安全地帯」にする気もなかった。今ではこの美しい孔雀の羽色の壁を毎朝見るたびに頬を擦りよせ、自身の英断にうっとりとする毎日だ。我が決断に悔いなし。だが、身につけるものとなると様々なバランスが発生する。仕事のイベントなどにも被れるものがいい。でも、かぶった時の印象は譲れない。ベーシックなカラーは個性を邪魔しないし、自分がシャープに見えるのではと期待をしたのである。
その日、素材、フォルムが私の輪郭を素敵に飾ってくれる運命のキャップを見つけた。
アウトレットで定価の半額以下からさらに割引され、
「わし、この値段で帽子自分で作れって言われても、まっぴらごめんやわ。。」
という、デザイナーさんにも生地職人も工場の縫製した人、ほんまお疲れ様やで!な法外な価格で、他のものには目もくれず、レジへ直行した。
この時の私はまだ、一年半後に、「まさか」こんなことになろうとは知るよしもなかった。
つづく